「もしも」に備えている。
どんな「もしも」だろう。
こんなご時世に「もしも」は果てしなくあるんじゃないかと思う。
そして「これで完璧!」となることも決してないとどこかで。
少しの間、踏ん張れるように。
少しでも、慌てずに済むように。
「日々、整える」は「備える」も込み。
では、いってみよう!
画像:「私のミニチュアコレクション」テーマ・街、背景模様の箱はマッチ箱くらい
1.「備えるモノ」のこと
モノは、もちろん大切。
「飲料水は1日、1人、3リットル」ってもう常識ではないかな。
情報は多く、防災意識は年々高まっていると感じられる。
「お店がわが家のバックヤード」というストックを持たない派の声には、「平常時」で「健康」で「買物事情がいい」という状況でしかありえないと以前から思ってきた。
どこで起きるか分からない災害。
多くの「備え」はこの「災害」に対してだと思う。
私も「ライフラインや物流が不安定になった状態での在宅避難」を考えて、困りそうなモノを使いながら少し多めに持つという「ローリングストック」をしている。
この「少し多めに」の上限が、ずっと分からないでいる。
「いつもいつも、たくさんある」という状態には「使い切れないんじゃないか」「古いモノばかりにならないか」と違う方向の心配をしてしまう。
「パンデミック」なんて世の中になったことで、「ストック考」はますます悩ましい。
とりあえず、保管場所を分けて視覚的に「ドッサリある」という状態にはならないようにした。
「わが家の備えるモノ」は自分で考えなければならない。
「一般的に皆さん必要でしょう」な情報は得られる。そこは参考にしまくる。
さらに個人的に必要なモノもある。これは自分のモノはもちろん、家族や近しいヒトのモノも考えたいところ。
2.「備えるイエ」のこと
最近、80代の母が家の中で転んだ。
ラグマットのわずかな段差。大したことはなかったが、本人の驚きは隠せなかった。
「ついに家の中で転んだ」そんな風だった。
この転倒の数日前のこと。
病院で母の友人(やはり80代)のお子さん達にバッタリ。
家の中で転んで、入院されるということだった。
他人事ではないと、早くも実感させられた。
「もう、どこをどうしたらいいんだろう?」と考えている。
思いつく改修や、家具の配置、モノ減らしも「安全」を考えて整えてきたつもりである。「つもり」なのは「完璧」とは言い切れないと、どこかで思っていたからかもしれない。段とも言い難いラグマットさえ、「危険」なこともあるのだから。
「イエ」は「備えるモノ」をしまう場所でもある。
モノの整理をする時に「捨てられない、なんだか分からないモノ」ばかりがあるより、「なんぞの時に必要なモノ」がある方がよっぽどいいと考えると整理をする手は進んだ。整理(処分)しそびれたいろんなモノが入っていた場所、今は見事に日用品や衛生用品ばかり。「なんぞの時に必要なモノ」は平常時にはなんでもないモノなのかも。
「備えるモノばかり」になるのもいただけない。
「備えるモノにすぐにたどりつけるイエ」でありますように。
3.「備えるは他にもある」
先の母の友人の入院話に、ますます「入院セット」の必要性を考えている。
私自身が病院に行ったところ、「即入院」という経験がある。
「着の身着のまま」で、「もう歩かないで」と車椅子に乗せられた。
「えっ、えっ、荷物取ってきます」と今思えばトンチンカンなことを言った。
もちろん取りには行かせてもらえず。
看護師さんが病院の寝間着を持ってきてくれたが、コットンのチュニックにのびきったレギンスを履いている(あまりのつらさに寝間着のような格好で病院へ行った)私を見て「それでいいか」と持ち帰ってしまった。
この経験から、引き出し一つに「入院時に必要そうなモノ」をまとめてある。それらを入れるかばんも。家族に広報活動もしている。そしていつかはかばんにまとめて、分かりやすい場所に置く予定。
深夜に過呼吸と低体温を起こし、救急車で運ばれたことがある。
なんとか母の部屋に助けを求め、バタン。
慌てる母、すぐに駆けつけた末弟と母の会話、救急車の車内、意識はあるものの全身に力が入らず呼吸がおかしい。体温はドンドン下がる。
病院が決まるまで結構な時間を要し、救急車で着いた時には歩けるくらいになっていた。
後になって「過呼吸で救急車を呼んではいけない」と何かで読んだ。
「初めての場合は本人も周囲も驚くからしょうがない」ともあり「しょうがないね、すいません」と思った。
これはその後、何度か起こった。(私の場合、1時間くらいでおさまる)
2回目に起こった時、自宅で近居な末弟もたまたま居て「何かかけた方がいいんじゃない?」「そうそう」心の声が届いたか毛布がかけられる。
「この折れ曲がった体勢はしんどいんじゃない?」「そうそう」心の声が再び届き、楽な姿勢にしてくれる。
私の場合、全身が硬直するというか動かせないので(目も開けられない・声も出ない)「時々向きを変えたり、手足を伸ばしてほしい」と平常時に家族に伝えておいた。末弟には「あんた、大正解!」と。
母は「大丈夫!死なない!」と励ますので「それも結構安心できる」と言ったら、その後も母は張り切って励ましてくれた。
最初はあわてふためいた家族も「ハイ、ハイ、またね~」と慣れたものになっていった。
若く繊細なヒトに起きやすいそうなのに、私は「おばちゃん」になっての発症。
「性質」からくるものだそうだから「治る」ということはないのかもしれないけれど、「ならない」という状態が少しずつ長くなり、もう前回は思い出せないくらい。
克服できたかな。
この時から、母の隣室で寝るようになった。
普通は「高齢の母を心配して」だろうが、わが家の場合「娘が固まるから」らしい。
互いに狭い家の端と端で休むより安心感がある。これも「備える」だと思っている。
私の「病歴」みたいになってしまった。
4.まとめ
「私の病歴」が長くなってしまいました。
「備える」は時として「わが家の突発的出来事」もあるなぁと思って。
必要以上に心配することも、過剰に備えることもどうかと思うが、「自分だけは大丈夫」(ナントカって言うのよね、正常性バイアス?)という考えには気をつけたい。
「備える」を普段にも家族や近しいヒトと話したり、訓練したり。そんな「モノ」ではないことも大切に違いない。
想像を超えてくる出来事が多い昨今、負けずに、めげずに、「備える」を考えて整えていきたい。
(ま)
同じ日の同じ時間帯に同じテーマで二人とも「備えについて」を書いていました。読んでいただき、ありがとうございました。
「ライフラインや物流が不安定になった状態での在宅避難」と考える理由
備える「イエ」
備える「片づけ」