日々、整える

50代*これからの暮らしのレシピ by.コギレイ堂

「捨てる」も少なくなった

「買う」が少なくなった近頃、「捨てる」も少なくなった。

「少なくなった」なので「ない」わけでもないし、「減ったよりも多い」感じ。

(なんや、よう分からん表現になってしもた)

「捨てる」に一抹の罪悪感を覚えるヒトは多いと思う。

「どんどん買って、どんどん捨てたらええねん!」

そんな思考にもなれないので、「買う」が慎重になっていった。

結果として「捨てるも少なくなった」

では、いってみよう!

 

画像:いつもの美味しいモノ、本文とは関係ないけど

「買うがやっかい」なコギレイ堂

 

コギレイ堂、私達の屋号みたいなもの。(由来は過去記事のどこかでどうぞ)

別名、片づけシスターズ、カタヅケヘンタイ

私達は会えば「何を捨てたか?」「どこを片づけたか?」と、「整える」ことばかり話している。時にはスマホで撮って、ライン会議(?)みたいなことも。

若い頃に比べ、50代になった今(6もチラついてきた)物欲減少もあるけど「買う」が「慎重になる」を通り越して「やっかい」だ。

「あれば便利」という発想はとうになく、「なくてもいいか」と考えてしまう。

「たくさんのモノを持ちたい」とか、「それが豊かである」とも思わなくなってきた。何より維持管理することに疲れたのかもしれない。

大いに「買う」を楽しんだ世代、既に満足したと言える。

 

 

「モノの持ち方について」コギレイ堂考察

 

雑誌を買うことがめっきり減った。「ない」に等しいくらい。

ネットでいろんな記事を読めて、YouTubeで関心のある動画を観られるからだろう。(なぜか鉄道系を勧められることがある、隠れ鉄子かも!?)

久しぶりに一冊の雑誌を購入。「部屋」の特集。気になる方の部屋がたくさん掲載されていて、「これは!」と買い求めた。

そしてゆみちゃんにも「読んで!観て!」と押し付けるように渡した。

 

「何もない部屋がいいわけじゃないよねぇ~」

「そのヒトが選んだモノがインテリアになるよねぇ~」

「モノの量は、収納空間に収まっていればいいんじゃない~」

「部屋は昨日・今日で完成しないよねぇ~」

 

私達は1冊の雑誌を共有して、いろんな感想を述べ合った。何かを食べている時も、誰も求めちゃいないのにいつも「食レポ」みたいに感想を言う。

「6がチラついてきた」50代になった私達は、モノの量で測る「シンプル」を良しとしているわけではないと気づく。

その時の自分の気力・体力に合わせたモノの量、暮らしに必要なモノ、好きなモノが周りにあって、それがインテリアとして成立する、そんな風に住まいを整えたいのだ。

「モノに振り回されない」はもちろん、「モノに癒される」そんなことも求めているのかもしれない。

 

 

まだまだ「買う」し「捨てる」コギレイ堂

「新しさん」(新しいモノの意)探しはエンドレス。

自室のエアコン、1999年製、20世紀のモノ~。使用頻度が少なく、今だ現役。関西在住で電気料金にさほど大きな影響がないため、「買うがやっかい」な事態。

2人でエアコン売り場を冷やかし(?)、おっちゃん(もしかしたら私達より年下かもしれん)に色々教わる。知識を増やしてもらったが、「ん~~~」とまだ考えている。

 

セールを楽しみにして出向くことはもうない。行動範囲が年々狭まっていくのだけど、そんな中でも欲しいモノや素敵なモノと出会えば楽しいし、購買意欲もわずかながら残っている。この「わずかながら」は頻度が少なくなっていることを表す。

「買うが少ない」のだ。だから「捨てる」も少なくなっている。

 

「片づけ大会」か「片づけ祭」か。大きなゴミ袋をいくつも処分するという動画を観るのが他人事ながら楽しい。自分が捨てるわけではないから罪悪感もないし、画面の中でモタモタするヒトよりどんどん整理していくヒトの方が「潔い」と感じてしまう。ただ「潔いヒト」が「その後のモノの持ち方を考え直してくれるといいな」という希望的感想も持っている。

 

見知らぬ誰かだけでなく、リアルでも「ゴミ袋、〇(数字)袋、捨てた!」と報告を受けることがある。「すごい!」とまずは励まし、「もう、そんなに捨てるモノが見つからないなぁ」とつぶやきにも近い感想を。すると「そんな風に言ってみたい!まだまだ頑張る!」また励ましたようで「決意表明」のような返信。

 

自分が使い切れなかったモノ、存在を忘れてしまったモノ、安易に持ち込んだモノについて処分する時「罪悪感」を覚えるのだと気づいた。

「使い切って捨てる」のは「ありがとう」と「ごくろうさま」だ。モノにも、自分にも。

多過ぎるモノに困っていたり、暮らしがままならなかったりするなら「罪悪感」をひしひしと感じながらも処分した方がいい。ちゃんと向き合って整理して、モノと自分自身に折り合いを付けていくことで何かが変わるから。

罪悪感を感じるヒトは「どんどん買って、どんどん捨てたらええねん!」という思考にはならない。モノの整理が一段落する頃には、頭の中の整理、心の整理、時間の整理、お金の整理もできているはずだから。同じ事態には戻らない。

 

まとめ

 

暮らしの中で普通に出る「捨てるモノ」、「ゴミ」とも言いましょうか。

自治体のルールにしたがって、さっさと捨てたい。こういうのは「罪悪感」はない。

何かが入って届いたダンボール箱はそれで役目を終えているのだから、すぐに畳んで出す日を待つ。放置はしない。

そんな習慣になると、「ゴミ」にもいろんなことを思うようになる。食品ロスや、ゴミの量のことなど。個人にできることは小さなことしかない。「わが家だけでも減らす」と考えている。

考えたら、減っていくようよ。ゴミ捨て回数も少なくなりつつある。

 

 

(ま)

 

 

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まなみ

「捨てる」を想って「買うがやっかい」になることもあるのです。サブタイトル、コギレイ堂まみれ!?

 

(ク)さん:そうそう~♪収納空間の中、意外と汚いことありますよね?「見えない場所のスッキリ」がうれしいです。