日々、整える

50代*これからの暮らしのレシピ by.コギレイ堂

本日の「整え」*藤のラック

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 捨てるわ‼️

30年くらい使った。

元はとれてる。(大阪人、元はとるは掟)

部屋に置かれ、そのうち見えない収納の中で使うようになった。

役目は終わりと思われる。

キャスター付は捨てる際も大助かり。

長い間、ありがとう‼️

「捨てるわ!」と書いたけど、「手放す」がピッタリきてます。

 

 

 「捨てる」という言葉に、言うことに、行動にうつすことに抵抗があるヒトは少なくないと思う。私ももれなく。

これから先に出番がないと思われるモノや役目を果たしたモノといった「明らかに要らないモノ」は「処分」することができる。中でも長らく愛用し「使い切った」と感じられるモノには堂々と、なんなら「惜しい」と感じ「ありがとう」の言葉さえ出てくる。すべてのモノとこんな「お別れ」ができたらいいのに。

 

「使える」モノの整理の際によく耳にする。これは「心の底では要らないと思っている」と私には聞こえる。前に「まだ」と付いたら確信に近い。

そんな私も言わなくはなったが、まだ「心の声」はする。「あかん、あかん!」ハッとする。「自分軸」ではなく「モノ軸」になっていると心の声が軌道修正して、さらなる判断を促すのだ。(大そうなんだけど)

 

「嬉々として捨てている」妹が私と母についてそう言ったことがある。

その週のゴミをテキパキとまとめて、さっさと出しているということらしいのだが、これを言われた時に私の「捨てる」への苦手意識は克服されたんじゃないかと思った。モノが入っていた段ボール、紙箱は躊躇なくつぶしてゴミの日までにまとめておく。その他に自ら捨てるモノを探している姿が「嬉々として」ということらしい。

彼女は「私もそうしたい!」とも言った。嫁いできて間もなくのこと。

 

「キレイに暮らせているよなぁ」これは最近、近居(同じマンション内)な末弟の言葉。何を改まってと思っていたら、末弟のご近所さんのお宅が「汚部屋かもしれない」とのこと。90代と高齢の方で、手押し車が廊下に放置されていたり共用廊下に面した窓や網戸は「掃除してあげようか」って思うくらいだという。部屋の中も想像できてしまうと。母は末弟に「まぁちゃん(私のこと)のおかげやなぁ。私一人やったら間違いなく汚部屋やわ!」なぜか自信満々。

 

「今はな」今の私はごみの分別も、箱つぶしも、ゴミ捨て場に運ぶこともできる。要・不要の判断も頑なではない方だと思っている。でもこれから先はどうか。変わっていくだろう分別についていけるだろうか。箱つぶし、まぁまぁな力仕事。大きい・重いモノを運べるだろうか。先日「重いモノ」を末弟に、「大きいモノ」を姪に手伝ってもらいその心配は大きくなりつつある。

 

今回の「籐のラック」は私は「使う・使っている」だと思っていた。母の部屋にあり、長らく便利そうだったから。「おこもり生活」の中で「モノの見直し」(整理)に拍車がかかり、母が密かにため込んでいたモノ(主に紙類)を整理、処分したら空いたのだ。そこで収納空間の中に入れ込んで再び使っていたところ、「やっぱり要らない」と申し出。「使える」と考えてみたものの、面倒に感じた様子。コロコロと転がして、私一人でゴミ捨て場に運べました。

 

 

最近のモノの整理は「発掘」に近い。思い入れのあるモノや使っているモノに着手している。そうして処分を決意したモノに「捨てる」とは簡単に言えない。「手放す」が合っている。50代、「手放す季節」ということで。

 

(ま)