「あって当たり前」だったモノがいつしか「過去のモノ」になる。
そんなモノが増えていて、「あぁ、そんな年齢になっとりま!」と実感させられる。
そんな「モノ」に自分で気づいていることもあれば、「そういえば」と他者から知らされる場合もある。
近頃は圧倒的に「そういえば」な方が多くて、「うっかり」なのか「ぼんやり」なのか。
ちょっと、そんなこんな話を。
では、いってみよう!
画像:16歳のわがまま、自室用、祖母からのプレゼント、弟達も使いたいとコード長め、チビーズは数字を押していた、ダイヤルは回すのよ
●目次●
1.「昭和レトロ」と呼ばれて
「当たり前だったモノ」を知らない世代に「レトロ」だの「オシャレ」だのと言われたところで複雑な気持ちがする。「そうなの?」「おちょくっている?」とすら。
反対に「今、当たり前にあるモノ」をガンガン、イケイケ(?)で使いこなす世代から、「そんなモノがあるの?」と出遅れている世代を見てどう感じるのだろう?
記憶を手繰り寄せてみると、「そっかぁ」程度の「どうでもいい」だろうな。楽しいことやすべきこと、いろいろあってこんな風に考えちゃいないな。
でも、いつかやって来る。このなんとも表現しがたい気持ちが理解できるはず。それが「加齢」だ。(なんて、はじまり方だ)
2.近頃の「モノ」ニュースと昭和懐古
「黒電話マーク」がなくなるとな。「保存」を意味する「フロッピーディスク」も知らんとな。公衆電話のかけ方も、「???」らしい。存在も減ったからね。最寄り駅や、よく出かける場所でもどこにあるかわからないくらい。いたしかたないのか。(通信障害で見直されたね)
JKだった頃、通学途中に何て呼んだか忘れたが受話器が2個ある公衆電話が1台あった。「3人で話せる」というモノで下校時刻にはJKが並んでいた。そんなことを思い出した。
3.「昭和」の子供と「令和寄りの平成」の子供
「ちょっと出遅れはじめている」と気づいたのは、意外と早かった。近居なチビーズ1号(姪、もうすぐセブンティーン)が園児だった頃。
年少さんが「おしりフリフリダンス」をする。これはK-POPだった。お笑いの流行もチビーズからもたらされた。テレビで目にする頃には「遅い」くらいで、ドリフとか電線マンを思い出させた。子供の方が「おもしろい」を素早く感じとる。
ゲームの「とび森」をやはり姪から。小学生にして、おば(私だけど)のオタク気質を察知していたのか、私を仲間に引き入れガイド本を渡される。「まぁちゃん(私のこと)、しっかり勉強してね!」と。
そして「更新!更新!」とわが家へ走ってくる。時々バージョンアップがあることを、知らされた。今でこそ知っているが、DS時代の更新情報は私の耳にも目にも届かない。「まぁ、こういう情報、入ってこないよね!」とランドセルを背負った姪に言われた日には「ぽかぁ~ん」であった。「大丈夫!私が教えるから!」とそそくさと更新してくれた。「はぁ~、ありがとうございますぅ~」だ。その後、姪はすっかり「卒業」したが、私は「あつ森沼」にはまったまま。
前に書いたぞ、あった!↓↓↓
逆パターンもあった。私の好きな「亜土ちゃん」やサンリオキャラなど、姪もはまった。小学校へ入ると、同級生が誰も「亜土ちゃん」を知らず、「先生も知らない」となげいていた。進級してクラス替えがあり、「1人、いた!」と報告してくれたことも。「亜土ちゃん、かわいいのにね~」と言う彼女に、「この絵を描いている亜土ちゃんはばぁばと同い年やで」と言ったら驚きを隠せなかった。亜土ちゃんも、母も、いついつまでも健やかに。
4.今も「CDラジカセ」を使っていますが、何か?
最近、懐かしのアイドルを観る。「歌姫」は「明菜ちゃん」世代。(美空ひばりでもなければ、安室ちゃんも新しいと感じるくらいで「今は誰?」って感じ)当時のライブの放送日には、同世代の歓喜の声をたくさん目にした。
「キョンキョン」が今も、当時も興味深い。「次は何をしてくれるのか!?」とハッチャケぶりは同じような髪形・衣装のアイドルの中でいい意味で「異色」だった。
すっかりキョンキョンも私も落ち着いたが、ずっと歌、文章、お芝居を楽しませてもらっている。40周年のホールコンサートがあったことを知ったのは既に「時遅し」だった。WOWOWで放映され、何度も観ながら歌った。私はもう高音が聴くに耐えないが、キョンキョンは「うまくなっている」と感じた。すごいぞ、キョンキョン!(明菜ちゃんも歌って、踊りました)
時間はたっぷり過ぎている。なのに、歌詞を見ずに歌える、なんなら踊れる。(ちょっとふらつくけど)イントロだけで、当時に「スコーン」と戻してくれる。
「ヒト」「歌」であって、「モノ」ではない。だけど確かに私の中に残っていて、いろんなことを当時より感じさせてくれる。
「うつろいゆく」悪くないな。「変わらない」も、「深さ・厚みを増す」も、ちゃんとある。形のないモノに感じさせられることもあるんだから、見えるモノも手放したところで同じように思えたらいいな。
5.まとめ
書こうとしていたことから、違う流れになったような。形ある「モノ」を前にしては、整理(処分)しづらい。整理を繰り返してきた今残っているモノといえば、「思い入れがたっぷりあるモノ」だ。
「必要」「あって当たり前」だったモノが、さらりと消えていくことがある。「道具」に多いかな。「黒電話」ではないがダイヤル式の電話機(ミッキーマウス)が、今も私の部屋にある。使わなくても、使えなくても(まだ環境により使える)、まだ持ち続けるつもり。
進化する「モノ」に感心したり、助けられたりする。凝り固まった考えにならないよう、新しいモノにも順応したい。「いち早く」は無理そうなので、「必要に応じて」くらいのスピード感で。
そうそう、先日の「7月は決心」のその後の話。
80代の母、何かで同年代の方の「1日1捨て」という投稿を読んだそう。その記事に感化され、「1日1捨て」がはじまっています。「料理本」がついになくなりました。整理(処分)を繰り返し、4冊残っていたのですがこれを手放す「決心」をしていました。「もう、スマホで観るからいいねん!」「YouTubeもあるし!」とのこと。80代となった私がこんな風に考えられるだろうか。頑張ろうっと。
(ま)
ざわざわする日々、出来事に「いつものこと」を書いていると落ち着きを取り戻せるような気がしています。読んでいただき、ありがとうございました。