大きいビニール袋があった。
「これ、いっぱい捨ててやる!」
なんだろう?袋とごみの日が私を「やる気」にさせるのか。
週末、重たくて抱えて運んだ衣類達。
迷わせないごみの日、挑んで!
「衣類の整理」終わる日はくるのだろうか…
「本日の整え」ばかりになっている。
「春整理」から「梅雨」になったかと思いきや、初夏?夏?
暑いお年頃なんだけどね。…脱線
ゴミ袋、私の住む市では指定袋はありません。
分け具合も「ざっくり」な方ではないかと思われます。
戸数のまぁまぁ多い集合住宅なので「ロータリードラム」というのがあり、普通ごみは30センチくらいにまとめれば「いつでも捨てられる」いう状況。
「いい炉があるねんで」とよくある噂。
その中で資源ごみや粗大ごみは、ごみ捨て場(小屋みたいなの)に指定日に出します。
衣類は「古布」ということのようで、資源ごみの日には衣類が詰まった大きな袋がいくつも置かれています。
「おぉ~、片づけてはるなぁ~」と他人様のお宅の片づけでもうれしくなります。
「がんばれ!家の中が整うと大抵のことは整うで!」
そんな声援(心の声)すら、おくっているのです。
「ここに入るだけ」
モノの所有量の限度、そう考えています。
衣類でもなんでも、「ここにしまう」と決めた場所に入るだけの量にする。
「7割程度、それ以下」が理想だけど、理想は理想でよろしい。
10割のマックスでもなんでも「はみ出ない」でまずは「良し」
そこから理想に近づけていけばいい。
「全部出す」「間引く」
出した、全部。何度、繰り返してきたことだろう。
収納空間を掃除して、「今回もいる」とするモノから収めていく。
わずかに4着「処分候補」
ここで「ヒトの目」を追加する。母、招集。
ここ数年、私の服は「自家製」である。
私の都合で「やってみて」と促したところ、当時75才だったんだけどガンガン縫えるようになった。
私は自分でしない、自分をよく知っている。
デザインや組み合わせ、そんなことは得意だが、作る、またその工程を考える能力はとぼしい。
その反対の人が家にいるのに見逃す方はない。
かくして布を選び、仕入れてきて(買ってきて)、ざっくりこういうモノを作ってと伝えたら、できる範囲でより良いモノが母により作り出されていく。
どう見ても、聞いても、考えても母の労力の方が大きい。
よって、この作品と呼ぶべきモノを安易に整理することが私にはできない。
収納された私の衣類を眺め「あぁ、これ、もういい!」「傷んでる!」「見飽きた!」「初期のだからへたくそ!」製作者の第二段階の「選別」
わっさ、わっさ、ごみ袋の衣類が増えていく。
「捨てられない」はなぜ?
衣類にも「思い入れのあるモノ」は存在するから。
全部が全部、いつまでも持っていられない。
整理を繰り返すうちに、「踏ん切り」がついていく。
もう「捨て大会」のような整理の域は脱したので、今後はこの「踏ん切り」をつけていく段階は「間引く」だ。
衣類だけじゃなく色んなモノに。
「誰かもらってくれないかなぁ」と思ってしまう
「捨てる」から逃れたいのよね、きっと。
まだまだキレイなのに活かしきれない、せっかく買ったのに、縫製のいいモノなのにとなんやかんや理由をつけてしまう。
そこで似合いそうな人や近しい人(私の場合、大きくなった姪)を思い浮かべて「もらってくれないかなぁ」だ。
あかん、これはあかん!
「捨てるの先送り」、「捨てるの押しつけ」になるかもしれない。
私のモノは私が決着しようではないか。最近の心意気。
「整理」はうつる
誰かの片づけは、他の誰かに伝染する。
もう一人(母だけど)が「整理モード」になる。
大きなごみ袋に、もう一人分追加されていく。
一人で整理をできる人、そうでない人、色々いるけれど「他の誰かの目と手」は後押しになる。呆れたり、怒ったり、「負の感情」をあからさまに出してはいけない。
ん~、「餅つきのこねる方の人」みたいな感じで「はい、そ~れ!」と合いの手くらいがいい。迷って手にしたモノを、代わりにごみ袋に入れてしまう。それでいい。
「これにいっぱい捨ててやるぞ!」
何かが入ってやって来た大きな半透明の袋にこんなことを思うのは私くらいか?
いや、いる。きっといる、他にも。ゆみちゃんや私のような「片づけヘンタイ」が。
今回「整理しそびれていたモノ」つまりは「捨てるを先送りしていたモノ」を全部処分。
「処分」でも売ったり、もらっていただいたりと「バトンタッチ」ができればいいのでしょうが、それは今の私にはめんどくさい。
さっさと手放したい。迷う時間や、労力を増やすことはもう避けたい。
晴れたごみの日、運ぶに重いほどの衣類とさようなら。
(ま)