日々、整える

50代*これからの暮らしのレシピ by.コギレイ堂

GW 文章を書くということ

ゆみちゃんの優しい文章が続き、「読む人」になっていた。

それもとても楽しみに待っていて、「あんたも書きな!」自分への心の声。

GW期間中、「日記のように」その流れは受け継ごう。

2005年から、二人でこうしてブログを続けている。

短文とガラケーで撮った画像からはじまり、一眼レフにはまったり、パソコンだけではなくスマホで更新をしたり。

時間の流れは、振り返ってみれば「ブログの変化」を感じる。

自分達の「暮らしの中のことについて、文章を書く」ということだけは不変かな。

では、いってみよう!

 

画像:5月は「DIY」経過報告画像、天井の貼り替え&照明器具交換、本文とはあまり関係ない

 

 

そもそも、「文章を書く」ということに苦手意識を持っていた学生時代。高校2年だったか、3年だったか(記憶が曖昧な50代)「作文を書く」という授業があった。授業の最初に「お題」が発表されて、ひたすら書く。他の授業と違って、居眠りもおしゃべりも、早弁もしている場合ではない。(なんたる授業風景)授業の終わりは「作文帳の回収」で先生は何もしてないんじゃないかと思っていた。(まだ反抗期)

次の授業で再び作文帳が手元に戻り、前回の評価を知る。10点満点でだいたい5点以下、最低は2点、最高は6点。2点の時は「もっと真面目に書きましょう」と赤文字。「書かない方がマシやん!」怒りの心の声、10代後半の私。「作文なんて、くそ食らえ!」だ。(不適切な表現で失礼、そのくらいの気持ちだった)

最後の授業は「この一年の授業をふり返って」だったので「自分が考えたことを2点とされ、書かない方がマシ」「教科書に載っているような文章だけが素晴らしいのか」とやらかしたところ、過去最高得点の6点。「なんやねん!?」だ。(長くこの作文帳を持っていたが、いつだったかシュレッダーにかけた)

 

エスカレーターに乗って、付属の短大へ。(昭和時代、女子は短大という流れが多かった)ここでまた「作文」の授業あり。「わたしゃ、どうせ2点さぁ~」と急に文章が変わるわけもないので、あきらめにも似た境地で毎週挑んだ。ある日、クラスの数名が名前を呼ばれる。作文帳ではなく「原稿用紙」になっていて、それを返される。「ちっ、書き直しかよぉ~」悪態をつく心の声。先生は「今のヒト達は清書してきて~」と言った。「はぁ?」だ。ポカン顔になっていたと思う。「学園の文集に載せるから~」と信じられないことも言った。

「上が変われば、評価は変わる」私が、私のまま書いた作文が堂々の掲載。高校時代の先生ももちろん読んだはずだ。「2点の反逆」だ。「やったぜ!(なぜに”ぜ”?)ざまぁみろ!」思うよね、思っていいよね。その後は「あぁ、文章を書いてもいいんだぁ~」と思えて今にいたる。

 

学食で友人が「まなみちゃんが話していたことがananに載ってるんだけど~」とやって来た。「へっ?」そういえば、たまたま買った号で読者ページの募集テーマが書けそうだったので、ちょこちょこと便せんに書いて郵便で送った。(この流れが昭和よね、もうすぐ平成が目の前の頃)それが載っていた。後日、記念のテレカが届く。(何でも片づけてしまう私だが、このテレカは今も使わずに持っている)ペンネームを使ったところで、親しい友人には「バレバレ」な文章だということ。「そうよぉ~、知らなかった?文章もしゃべってるまんまよ!」友の声。そうだったのかぁ。

 

自費出版の会社のコンクールみたいなのに応募したことがある。入賞すれば(最優秀賞のみ)出版化されるという。内容はこのブログに書いているようなことで、住まいについての片づけや整えについて。「肝試し」(?)のつもりで応募、1度目は撃沈。2度目は優秀賞(出版はされないが賞金はある)だった。その選考過程のからくり(?)が2度の応募によって想像でき、興味深かった。最終選考に残っていると、応募後間もなく通知がきた。著作権の確認やら、賞金が出ることは間違いがないので振込口座を知らせるようにとあわただしく結果を待った。小説や児童文学でもない、地味な「片づけ」がテーマでわれながらよくやったと思っている。2度目はなぜ、最終選考に残ったのか。内容はほぼ同じなのだが、構成を変えて読みやすい工夫をした。違いはそれだけ。原稿は数年後、その出版社が倒産する時に返却してもらった。30代前半の文章は「私はこんな風に思っています~」と遠慮がちで、まだまだ若さが感じられる。今では思いつかない言葉選び、今も同じ表現を見つけて自分で書いたものなのに驚くことも。今は私のネタ帳。

 

小説や物語が書けるのかというとそうではない。

自分の思っていること、考えていること、誰かに伝えたいこと、内から出てくるものしか書けない気がする。多くのヒトがそうじゃないかな。ブログを「記事」と言い表すことがあるけれど、どこか違和感を持っている。(私も「記事」って言うし書くけど)

ニュースや説明、情報などの「客観的要素が強いもの」が「記事」に思えて、「主観満載」なブログは「ねぇねぇ、ちょっと聞いて~」と娯楽要素があるように思う。(立派な記事ブログもあるけど)

私達が普段話していることが、このブログになっている。「ねぇねぇ、ちょっと聞いて~」と書き続けたい。「日記のように短文でお届けしたい」と思ったのに、いつもの2000文字が見えてきた。

そう、私、めっちゃしゃべるよ。読む方に、「長いねんけど、なんか読んでしまうねん」と思ってもらえたらラッキー、ほくそ笑む。(私も「うわぁ、一気に読まされたぁ、おもしろい!」と思わされるブログに出会うと楽しい)目指したいところ。

そして文章の出だしで、「今日は(ゆ)や!(ま)や!」と分かってくださる方がいらしたら、ありがたすぎる!

 

(ま)

 

 

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まなみ

お互いの文章に影響を受けています。続けていくうちに「個性」が生まれたように思います。読んでいただき、ありがとうございました。