「これは一生モノだからぁ」
モノを整理する時、言いませんか?
私、言ってました。
ふと「一生モノって、一生経ってみな分からんで」
気づくわけです、遅いわ>私
「一生モノ」って分類、あるあるだと思う。「しまい込む」と同じにならないようにしたいなぁ。
- 1.好きなモノ「かばん」の中での現在の「一生モノ」(予定)
- 2.部屋にあるモノ「インテリアグッズ」の中で現在の一生モノ(予定)
- 3.「一生」ではないけど、今後あり続けるであろうモノ
- 4.はてさて「一生モノ」とは?
1.好きなモノ「かばん」の中での現在の「一生モノ」(予定)
多分、この3つ。父から、母から、祖母のような方からの贈り物。もう可愛すぎる感じもありますが「おばあさんで持ってたらかわいくない?」と思うわけです。革製は重量感があって、手持ちの数としては激減中。あと、小ぶりのリュック2個(セリーヌとコーチ、茶色と黒)の合わせて5個。革製バッグはちょっといいモノ&思い入れのあるモノが残っています。
かばんが好きすぎる「かばんバカ」なのですが、「加齢と共にモノを減らす」がマイテーマなので「整理しよう!」という心意気はあります。かばんの「重さ」が整理する際に基準になるとは、若い頃には想像もしませんでした。だから「一生モノ(予定)」がわんさかあった。
布製や自作(最近自分でも作る)のモノには「一生モノ」と思える気がしない。なのに膨大にある。こちらを何とかした方が「数」は減るはず。減らそう、頑張ろう。でも意外とこの軍団の中にも「一生モノ」が登場するかもしれない。自分で思うのと実際は違うものだ。
2.部屋にあるモノ「インテリアグッズ」の中で現在の一生モノ(予定)
子供の頃からあります。亡父が揃えたモノ。いたずら防止に高い位置に飾られ、触ろうとするものなら父のカミナリが落ちた。「そ~っと眺めるモノ」でありました。その結果、壊れることもなく現存。わが家にあるモノの中で「一番古いモノ」じゃないだろうか。
地震の際(阪神大震災、大阪北部地震)には、こける人(?)多数。北部地震の時は姪と甥が救済(きれいに並べなおす)してくれました。彼女達が幼い頃「触りたい」「遊びたい」と言うのを「いい子にしたら出てきてくれるで」と言い聞かし、たまぁに一人だけ出しておき「おりこうさんやったからやなぁ」と。大喜びでした。
おば、大ウソつきです。子供の頃には不思議なことがあってもいい。こんなやりとり、いっぱいしました。「そ~っと眺めるモノ」を亡父とは違う方法での継続。壊れる危機の回避です。
これは「自分へのご褒美」
私にとって大きな仕事を終えた後、ご近所ギャラリーで。私達の世代には大好きイラストではないでしょうか。いまだに小物を買ってしまいます。モノ選びにおいて背伸びをすることもなくなり、年齢を気にするより自分の「好き」や「お気に入り」が身の回りにある方が楽しい。悟ってから以前にも増しての「自分軸」です。
「亜土ちゃん、ばぁば(母のこと)同い年やねんで~」幼い日の姪に。ビビっていました。
「学校のお友達、亜土ちゃんのこと知らないんだよぉ~」平成終わりの小学生には見知らぬキャラ。「変なおばの教え」は幼少期、多大なる影響を及ぼしたと思われます。(…脱線)
「これは私がもらうわ!」既に姪が受け継ぐ意思表明。
3.「一生」ではないけど、今後あり続けるであろうモノ
現在使っている家具の多くがその予定。使用歴35年くらいになり、十分「アンティーク」ではないかと思っています。自分や近しいヒトが使ったモノを使い続ける。「勝手にアンティーク」で「ナチュラルアンティーク」そう私は呼んでいます。
重厚、文字通り重い。模様替えやリフォーム時、大変。そうそう動かせません。「処分する時、大変だろうなぁ」と想像します。一人でも動かせるような小ぶりなモノにしたり、収納家具は造り付けにしたりした方がよいのではないか。そんなことも思うけれど、「物語」は「モノガタリ」長く使った(使えた)分たっぷりエピソード付き。家具に合わせた内装にしてしまったこともあり、このまま使い続けたいと今は思っています。
4.はてさて「一生モノ」とは?
「一生経ってみな分からんで」です、やっぱり。
「一生」でなくても長く使えるモノというのは、自分の好みであることはもちろん「耐久性」も備えたモノではないかと思います。その判断はとても難しい。「好み」も変化するし、使ってみなければ分からないこともあるから。
30代くらいからさほど流行を追わなくなり、「自分の定番」というものがなんとなく。見るもの何でも欲しい、流行ものは絶対欲しい、そんな若かりし日が懐かしいくらい。バブル期にお年頃だったため、贅沢なモノ選びをしてきた世代。そういう時期を経て、「長く使えるモノを選びたい」と考えるようになりました。「後々に一生モノがいくつか残っていたらいいなぁ」50代になった今はそう思っています。
もう、「モノを選ぶ目」を養う時間は終わったはず。これからは「モノガタリ」があるモノを少しだけ持つ暮らしをしたい。
(ま)